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まとめの宝物(2)

知識的な人は、宇宙真理を探して、求道はよいものだと思い込んでいるが、それは救われようとしている「我」があるからだ……というそれに、気付いていない。 そして様々な救いの為の真理(自己流の結論を出している)が創り出され、人はそれにひっかかって、真理を見つけよう、自己を見つけよう、宇宙の根源は何であるかを見付けようとする。 …すればする程、思考が続き、実をいうと迷いの世界を深めるばかりである。

そこで、その迷いの道から離れ、本当の自己の姿にかえる方法を教えよう。

A.求道をやめて、素朴な人間になる事。
B.乱れる感情を正し、その病を癒すために次のような事を考える事。

人は皆、善である。 なぜなら人は皆、善くなろうと思っている。

ところが悪いのは、いじわる、妬み、怒り、嫉妬する、だます、その他の悪い心と行為の人。 それは、人が悪いのでなく、社会が悪いのである。 歴史が悪いのである。 善い人間をそんなようにしてしまった環境(それには、世の中にあふれている様々な思想、真理らしい言葉も含む)が悪いのである。 そういう社会悪をもって流れてきた歴史が悪いのであって、人そのものが悪いのではない。 人は皆、善人である。 …と思うこと。 それが正眼に構えた本当のあり方である。

その眼と心で人を見ると、感情が湧かなくなり、清い感性で人を見、清くやわらかい、やさしい態度で人に接せられてくる。 これが本当の人間(己…おのれ)の形相である。 自然の本当の形相は、そのように乱れが少しもなく透明で、整いきっている。 例えば、すばらしい日本庭園などには、そうした人を感動させる力、形相の整いがある。 日本庭園は一言もしゃべらないが、人間を透明で詩的で神話的で、そよ風のような世界に誘い込むものがある。

人は説教や理論をしゃべっている間はダメである。 …先ず自己の形相を整えて、知的や情感的な自分を追い払わねばならない。 …人は決して悪いのではなく、歴史や社会が悪いのであるという正眼を持てば、無言で力があって、やさしい本来の人間が持つべき形相が現れてくる。

以上の1と2をしっかり理解すれば、毎日おだやかな日々がおくれてくる。 自分というものは、こんなにやさしく人に接することが出来る人間であったのかと感動する事がある。 人の悪を見て、自分が感情的にその人を責めたり、避けたりして来たのは何だったのかと、眼がさめたようになる。 自分の形相(心と形)の整いを驚きの眼で見れるようになる。 悠々と堂々と、晴れた気分で道を歩き、人と接せられるようになる。 そのよろこび。人生がそこから楽しくなってくる。