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救われる秘訣(3)

では感性の乱れを鎮める方法を述べる。

人は善人と悪人があるように見える。しかし人は皆善人である。 なぜなら人は皆、善い人間になろうと努力している。 それなのに「悪い人」に出会うと、――例えば人をだます、人の物をとる、うそばかり言う、悪口をいって人の和をよけい乱す、うらむ、憎む、いじめる、意地が悪い、嫉妬深い、疑い深い、等々、くせのある人がいるが、そういう人に出会うと――悪い人だと思ってしまう。 しかし完全な人というのはないのである。

人は皆、善人である。 善い人なのである。

ところが、そこにいろいろな悪いものがある。 その悪いものというのは、社会がそんな人間をつくってしまっているのである。

善悪を言う社会の中で育つと、やはり善悪を思う人間に育てあげられてゆく。 小さい子供の頃は透明であった。 それが、親から善と悪を教えられている。 「そんなあなたでは、だめです。もっと良い人間になりなさい。」と善と悪、…善人と悪人を教えられる。 それで、悪人を見ると悪を感じとってしまう。 そして腹を立てたり怒ったりして、そうした感情の乱れで人間関係の中で苦をもつ。

ところが相手の事より自分の方が悪いのである。 物の見方、捉え方がよくなってくると、悪い人というのがいなくなり、人は皆善人なのだという考え、思い、そのままの自分となってくる。 悪いのは、その人を育てた社会が悪いのである。 社会がもっている善悪意識が、そのまま善悪を見るくせを作ってしまったのであって、人は悪いのではない。

人は皆善人で悪いのは社会である、というしっかりした正しい眼と、正しい知恵が必要である。 すると感情が鎮まってくる。 そして、やわらかく、どんな人とでも接することが出来てくる。 これが自然の自分の姿、かたちである。

このような形相が日増しに成長してくると、その人の顔、かたちから光が出てくる。 人ばかりでなく、あらゆる物、存在するものは光で出来上がっている事が分かってくる。

人間の眼と知恵が、今、いや約一万年程前から、その光を見る力を失って来ているのである。