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連鎖から離れた人間

まず、太陽と人間との関わりについて話していきます。野菜が光合成といって、太陽の光を浴びて成長していきます。 樹木も光合成の関係によって成り立っています。また、太陽の光以外に、引力や慣性力、その他自然の中の様々なエネルギーの影響を受けて、全てのものが存在しています。 そのように、宇宙にあるものは全てそういうものと皆縁があります。 それはあたかもエネルギーの大海の中で生きているようなものです。

ところが人間は、そんな事など余り考えずに自分中心に生きています。 人間は人間だ、石は石だ、空気は空気だ、距離は距離だ、時間は時間だ、宇宙エネルギーはエネルギーだと、それらを利用することばかり考えています。 しかし、石も人間も距離も全てそういうエネルギーという波動と相互関係があって、生き存在している仲間なのです。 それにも関わらず人間は日常生活に忙しく、そういう仲間的な意識を殆ど忘れてしまい、「宇宙連鎖」から遠く離れた所で生きています。 そして人間の知識で何でも開発できるというような、横着な考えの人間に成り切っているのです。

古代の人は、月も太陽も山も自分と同じように思っていました。万物と人間が一つになっていたのです。 ではそのように交わりをもちそれらが自分の一部に思っていた人間が、どうして連鎖から離れた人間になったのかといいますと、以前にも述べましたように、人間が「あちらとこちら」、「私とあなた」という言語をつくってしまってから、自我という個なる自分が出来上がってしまったのです。 文明・文明と人は言って誇らしげに生きていますが、それは本当の文明なのでしょうか。 舞台が人間中心になり、文化人・文化人と言って自慢していますけれど、太古にあった文化と近代の分かは質が違うのです。

今の文化は連鎖文化をかなぐり捨てた、人間独自の合理的理性で突っ走っている文化です。 本当の文化人とはそういうものではなく、透明な感性を主体として、全身で宇宙と一つであると感じ取っている人々のことをいいます。 現代の人間は相対的な合理知をもって、人為的に自己と宇宙をゆがめているのです。 だから人間は相対的な美感と喜びの中で生き、宇宙との一体感から出てくる躍動の、生命的な本当の喜びを持たないのです。

人は目の前にあるコップを見てもただのコップであり、机はただの机であり、馬は馬であり、空気は空気であって、 自分と離れたところにコップや机があるのです。そして人は、ただ美しいものを見たら美しいと感じるだけの人間になってしまっているのです。 美しいと感じるだけでは詩人にはなれません。詩の心とは、全てのものとの一体感から出てくる「対話」にあります。 ホイットマンはどんな人にでも、道端の草にも「やあ、こんにちは」と挨拶を交わしました。