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構図を変えよ 向かい合いの構図で苦しむ

今は、時代がものすごく進歩してきています。 宇宙船が行ったり来たりしているように。 そんな時代に、まだ我々は、地面をはいずり回るような生活をしているのです。

昔、大体一万年程前の人達は、「わたし」と「あなた」とか、「あちら」と「こちら」というそういう中に生きておらず、月も星も太陽も空間もすべてが自分だったという、宇宙との一体感の中に生きていた人々だったのです。

ところが今の人々は、「わたし」と「あなた」、「あちら」と「こちら」…‥そして「好き」と「嫌い」の中に生きています。 夫婦の問題にしても、近所の人の問題にしても、感情というものが存在しています。

我々人間が、何に苦しんでいるかを考えてみますと、経済も問題の一つだと思いますけれども、やはり、 一番苦しむのはこの人間関係……。 人が人に苦しむ。人が大きなオオカミとか、恐ろしい動物に苦しめられるというのならまだしも、人が人に苦しめられているという、そういう低い所をまだ歩き回っているのです。 そういう事は、最も馬鹿げたことです。 そういう最も馬鹿げた事から、人類は何千年もぬけきれていないのです。 そういう事は早く断ち切らないと前に進めません。

それでは何故、人と人との関係で苦しむのかと言いますと、それは人と人とが向かい合っているからなのです。 向かい合っている……つまり相対ですね。 相対的になってしまっているのです。 だから苦しみが続くのです。

大昔の人には相対というものがなく、すべてと一体だったのです。 宇宙の大きな「気」 の中で呼吸していたのです。 だから、彼らには死がありませんでした。 死んでも死んだとは思っていませんでした。 それ位大きかったのです。

小さくなった人間のところへ宗教がやってきました。 「おまえの心が悪いから苦しむのだ」と言いました。 また、愛しなさいとか、親切にしなさいとか言いました。 けれども、そんなことは一万年も言いつくされて来たのですが、うまくいかなかったのです。

人間が苦しむのは愛がなかったからではなく、根本的に人と人とが向かい合っていたからなのです。 つまり相対になっているからなのです。 これは構図の問題ですね。 構図がこういう具合に向かい合った状態になってしまっていたのです。 それで人間は苦しんだのです。

私は今、どうしたら人類は救われるのかという事を、これまでの宗教的な言い方ではなく、幾何学的な観点から説いているのです。 つまり構図の問題……構図が相対的になって向かい合っているから、悩むのだと。 だから太古の人のように、つながった構図の人間にならなければならないと説いているのです。


聖賢を欲する病気

私がアメリカヘ行って、アメリカ人に対して感じたことの一つに、アメリカ人には「響き」があるという事でした。 アメリカ人はニコニコした人が多いです。 ほほ笑んでいますね、ほほ笑みを持っています。 ところが、アジア人というのはあまりほほ笑まず、うっとうしい顔をした人が多いです。

それでは、何故アジア人はうっとうしいのかと言いますと、それは何時も考えてばかりいるからです。 「人間とは何か?」とか、「人間は何のためにこの宇宙に生きているのか?」「死んだらどうなるのか」「これで天国に行けるのか」と、そのような事ばかりを考えているから、だんだんアジア人はうっとうしくなってくるのです。 ここにも、間う者と問われる者との相対があります。 そんなものの中からは、本当の解答はやってきません。

それから、アジア人にはもう一つ病気があります。 それは、聖賢を欲するという病気です。 つまり、聖者とか、清いとか、賢いとかいったものを求める病気です。 「お釈迦様のようになりたい」「イエス様のようになりたい」「聖者のようになりたい」という具合に、聖とか聖なる道といったものを、追いかける病気なのです。 これも、相対的なものの中から出てくる、 一つの病気です。 丁度貧乏人が金持ちを欲するのと同じで、自分達の精神が貧しいから、自分達が狂っているから、そういう「聖」なるものを追っかけるのです。

ところが、そんなものを追っかけていると、自己陶酔に陥ってしまいます。 「私は良いことをしている」「私は聖者の道を歩んでいるのだ」とか言って、自分で自分を喜ばせて、なんとか助かっています。 しかし、これは本当は助かる道に入っていないのです。 これも、いわゆる相対病です。

人間は、本来の「響き」というものを失ってしまって、「聖」という文字ばかりを追いかけているのです。 お釈迦様はそんな事を説いていないはずです。 神にも仏にも頼らずに、自己を信じてしっかり生きよ、宇宙大に大きくなれと説かれているのではないでしょうか。

人は人間関係で何かまずいことがあると、すぐ宗教とか神様とか言って「聖なる道」……つまりほら穴ですね、そういうほら穴の中へ入って、心を閉ざしてしまうのです。 それで、どんな顔になるかと言うと、うっとうしい顔になるのです。